教育勅語は君が代問題と同じである

君が代の歌詞は「天皇の治世を祝う」ためのものなので、主権在民の日本国憲法には相応しくない。にも関わらず国旗(日章旗)と国歌(君が代)を抱き合わせて制定してしまった暴挙をと同様にして、天皇をトップにしての政治体制を熱望し復興させようとしている右翼政治家たちは、上から目線の天皇の言葉を後生大事にして復活させようとしているのである。

自民党の改悪憲法草案を見れば、右翼政治家たちの考えがよく見て取れる。
第一条の天皇についてでは
天皇は日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
因みに日本国憲法の第一条では、
天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
つまり改悪憲法草案では、「天皇は日本国の元首」としているのである。誰が元首であるかは政治体制によって異なり、天皇を元首にしてしまうということは【天皇を君主】とするのと同意義である。

改悪憲法草案での第三条で国旗と国歌について定めている。
国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2. 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない

として「内心の自由を侵害」する内容になっている。

君が代の歌詞は日本国憲法には適さないが、歌詞の一部を変えれば適した内容にすることはできる。それは末尾の「こけのむすまで」を【苔のむすまでではなかったな】としてしまうことで、更にその後ろに【嘲り(ギャハッハ、とか)】を付け足すと、より天皇の立場を表すことができる。

ところが「国旗及び国歌に関する法律」の第二条第二項で
2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第2のとおりとする。
として、昔ながらの歌詞にしてしまってる。つまりは現在においてさえ、既に「天皇が君主であるかのような」ことを、国民に半ば強制しているのである。

君が代は歌詞の一部を変えれば日本国憲法に適したものにできるのに対して、教育勅語は小手先だけの変更では日本国憲法に適したものに変えてしてしまう事はできない。臣民を国民に置き換えたところで、【天皇一族を第一義】にし、国民(臣民)は天皇に【忠義(まごころを尽くして仕える)をあつくしなくてはいけない】というのでは、他のところにどのような事が書いてあるにしろ、それは【全ては天皇のため】ということになってしまうからである。

さりとて「天皇一族」を「国家」に置き換えても同じである。それは国家を個人より上位に位置づけてしまうと日本国憲法の精神に反してしまうためである。

他の事柄についても不適な部分はある。例えば「父母に孝行」であり、『子供を育てるのは親の努め(当たり前のこと)』としないばかりか、敷いては戦前と同様の【天皇は国の父として、皇后は国の母として】に繋げようとしてしまうことができるからだ。
2017年04月04日