PC-VAN : オバン実態記録 2

男女共同参画社会
 前項で戦後教育の欠陥によって生じた社会の歪みについて簡単に触れたが、この歪みを更に拡大させてしまう計画が現在政府の手によって進められている。それは「男女共同参画社会」というものであり、世界女性会議での決議に従って政府が閣議決定をし各省庁に推進を呼びかけているもののことである。
 この男女共同参画社会については総理府に関係資料が提示されているが、男女共同参画社会計画そのもののが社会の歪みを更に拡大させるものだと言っているわけではない。男女共同参画社会計画への考え方や推進方法に、歪みを拡大させる傾向が現れているということだ。

 提示資料には認識不足による蒙昧な考えや、幻想の混入による偏向的考えが含まれている。例えば「男女共同参画社会とは?」には
「男性は仕事、女性は家庭と子育て」などの固定的な男女の役割分担意識は依然として根強く残っています。
私たち一人一人が固定的な男女の役割分担意識を改め、男女が政治の場にも、職場にも、家庭でも共に参画し、生き生きと充実した人生を送ることができる社会を実現しましょう。
という部分がある。
 しかし実際には男女が役割分担してきたのではなく、また役割分担意識によって社会での男性と女性の役割が異なってきたわけでもない。人類の歴史において男性社会が結果的に誕生したため、男性社会における男性と女性の位置づけが必然的に定まったのが事実である。このことは人間社会に役立たせるため獣を飼い慣らし家畜として用いてきたのが事実であって、人間社会を形作るために獣と人間が役割分担してきたわけではないのと同じことだ。それが必然的結果を認識できない人や認識したくない人が、男女が社会において役割分担してきたと思い込みたいだけに過ぎない。
 状況によって必然性は推移するので、先の大戦時に男性が兵隊に取られた穴埋めとして、労働力確保のため女子供が徴用された。また戦後経済の発展に伴い労働力増強のため女性が社会に進出する機会が増えたが、自然の摂理を十分すぎるほどに理解していないと人間生活の基盤が損なわれてしまう事態を招く。しかも戦時のように影響が一過性に留まるならまだしも、恒久的になればなるほど人間生活の基盤が損なわれる機会が増大し、果ては人間としての生活が壊滅的打撃を受けることになる。
 文明の発達によって人間としての生活が壊滅的打撃を受ける機会は減少するが、文明がいくら発達しても人間が生物としての宿命を背負っている限り、自然の摂理に反した需要に応じてしまえば別の形で生活基盤が破壊され社会が成り立たなくなる。だから人道上の観点から男女共同参画社会を推し進めるにしろ、「どんな問題点を孕んでしまうか」の研究を疎かにしてしまえば、人間社会の発展どころか倒壊への道を歩むのと変わりなくなる。

 また「男女共同参画社会の実現をめざして」には以下がある。
男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。すなわち、男女の人権が等しく尊重され、社会参加意欲にあふれた女性が自らの選択によって生き生きと活躍でき、男性も家庭や地域で人間らしい生き方を楽しめる、お互いが支えあい、利益も責任も分かちあえる、いわば、女性と男性のイコール・パートナーシップで築き上げるバランスのとれた社会像です。
 女性が活動に参加する機会は制度の充実によって増やすことができる。また男性が生み出す利益を今以上に女性が貪れるようにすることも可能だ。しかしだからと言って、男女が対等な社会の構成員に成りえるわけではない。それは女性にはいくら教育を施しても越えられない壁があるためだ。この壁は女性の特質に由来することなので、遺伝子操作によって男性の特質を植え付けられるようにならない限り壁を乗り越えられるものではない。
 ここで言っている女性の特質とは「女性は**でなければならない」といった社会からの要求結果や、女性が女性であることに甘え精進を怠けていたための付けではない。男性及び女性の生物的な根幹に根差すことであり、人間が生物である限り付きまとう宿命のようなもののことだ。

男性と女性の特質相違については私の「男性に化けた愚かな女性の見本」などで取り扱っているが、参考までにユングの「自我と無意識の関係」の中から男性及び女性の特質相違について触れている部分の一部を紹介しよう。
 女性の意識的態度は、一般的に男性のそれに比べて遥かに排他的で個人的である。女性の世界は、父親たちと母親たち、兄弟たちと姉妹たち、夫たちと子供から成っている。残余の世界は似たような家族から成り立っていて、互いに手を振るが、その他の点では主として自分自身にしか興味を持っていない
 男性の世界は、民族であり、「国家」であり、利益コンツェルン等などである。家族はたんに目的のための手段、国家の基盤の一つにしかすぎぬ。その妻は必然的にその女性でなければならぬわけではない(いずれにせよ女性が「私の主人」と言う場合に意味しているのとは違うのである)。普遍的なるものの方が男性にとっては、個人的なるものより切実な問題である。
 それゆえに男性の世界は多数の並列的因子から成り立ち、女性の世界は、自分の夫の向こう側では、一種の宇宙的霧に接しつつその果てに到達している
 (引用:自我と無意識の関係 P145 野田倬 訳 人文書院)
 ユングはスイス人だから当然スイス人の視点から捉えているわけだし、また東洋の思想に傾倒した時期があったと言っても東洋人の内面を西洋人ほどには把握できていなかったかもしれないが、表層的な違いを取り除けばユングの指摘した特質が現在の日本人にも該当することを、注意深く観察できる人なら見出すことができるだろう。
 しかし男性と女性の特質相違は認識力にも影響を与えるので、「一種の宇宙的霧に接している」女性にとっては分別不可能に成らざるをえない。分別が不可能ということは異なるものを同じ物として認識してしまうことであり、また男性ならば予測できる事柄が女性には予測できないということだ。そのため私が圧縮ファイルとして提供している資料に見られるように、この男女の特質相違によって明暗がはっきりと分かれてしまうことになる。

 女性が男性に対して、或いは女性が男性社会に対して不満を持っていることは、私だけでなく他の男性も当然理解していることだ。この不満の原因を男性の対応に女性が定めるにしろ、不満の解決方法はひとつしかないと言うわけでない。
 例えば新しい国家の建設である。ユダヤ人が国家再建のために費やした情熱やクーデターによる新生国家への情熱、またユーゴスラビアの瓦解に見られるようなナショナルリズムよる新国家建設への情熱は半端なものではない。そのため本来ならば世界女性会議において女性国家擁立が決議され、女性国家実現のために国連の場で働きかけると言った方法があったはずだ。ところが実際に決議されたのは「男性の肩にすがる方法」であって、女性独自の手によって不満を解消しようというものではない。
 これでは女性はいつまで経っても男性への従属化を避けられず、また男性と対等な社会の構成員になることはできない。女性が真に男性との対等化を目指すのであれば女性国家建設を目指すべきであり、伝説上のアマゾネスを現実化するしか道はない。

林檎オバン騒動記
 この記録は偽者登場によって慌てふためく林檎オバンを中心とした騒動記です。話しは複数のボードで繰り広げられていますが、都合上フリーボードとOLT広場でのログしか収めてしません。また双方のログは一部重複がありますが、両方のボードに掲載されたための結果です。
 オバンの実態記録としては「主題はオバン」が勝ります。しかし林檎オバンが以前にどんなことを行っていたか知りたい人には利用価値があるでしょう。

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1998年02月26日
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