ジェンダーフリーと女性専用車両

女性専用車両の導入は痴漢への対処的処置として捉えられるが、女性専用車両はもっと別な見方もできる。

ジェンダーフリーが「男女を同じ扱いにする」ことを目指したものなら、従来の男女混合車両はジェンダーフリーを先取りした形態で女性専用車両は反ジェンダーフリーに相当す。それにも関わらず女性専用車両に異を唱えるフェミニストたちの声が聞こえてこないのはどうしたことなのか。
「男女混合の身体検査」「男女同室の着替え」に見られるジェンダーフリーの顕著な表れからすれば、女性専用車両に異を唱えないのはフェミニストの名折れだ。しかしその傾向が見られないのは何を物語っているのだろうか。

世の中には様々な思想があるものの、同じ思想が人によって解釈や目指す方向に異なりが生じることは珍しくない。キリスト教やイスラム教では他から原理主義と呼ばれるものがあり、一般的に「宗教的な信念・目標を、第一行動原理とし、その社会的実現を目指す事」として解釈されている。
そのためフェミシズムにおいても、フェミシズム原理主義に相当するものから「恣意的解釈するものまで」様々な形態があることが考えられ、先に挙げた「男女混合の身体検査」「男女同室の着替え」はフェミシズム原理主義によるものと言えるかもしれない。

しかしこういった捉え方とは別に、フェミシズム化の対象の相違によって考え方が異なってしまってることも考えられる。「男女混合の身体検査」「男女同室の着替え」は対象となった児童生徒自らが望んだ結果ではなく、児童生徒を教育統括するフェミニスト教師や教育委員会に名を連ねるフェミニストたちによってジェンダーフリーが実行された結果だ。
それに対して女性専用車両の対象になる人は、フェミニストを含めた人たちという違いがある。そのためフェミニストたちが対象によって対応を替えているのであれば、他者には社会的平等を押し付ける一方で、自らは権力闘争に明け暮れつつ一般の人たちより遙かに豊かな生活を求めた共産主義権力者と同等のありさまと言えよう。
2005年11月08日