少女愛・人形愛

東京の一部地域を股にした少女連続悪戯が紙上を賑わしている。幾種類かの似顔絵は出回っているが未だにめぼしはついていないようである。この少女に悪戯し続けている人物の動機は現在のところ定かではないが、今国会での法案化が目論まれている児童買春及び児童ポルノ取締法への抗議行動と捉えるには無理があるだろうか。

少女を標的としたこのような行為(敢えて、犯罪とは呼ばない)が年間どれだけ発生するのか、あるいまたこれまでどのくらいの件数が発生しているのかを全くといって良いほど知らないが、少女への悪戯が発覚した人物として記憶に残っているのは第一に宮崎某ということになる。
しかし宮崎某について知りえている事柄は、宮崎某の家には少女を扱ったビデオが山をなしていたとか、使用前・使用後もどきの生前と殺した後の写真が見つかったとかいう程度である。取り調べにおいてネズミ男に指示された結果などと打ち明けたという話しも知ってはいるが、事件の核心に付いては何も知らない。
他には事件の内容は殆ど覚えていないが、幾つかの報道を見た記憶はある。例えば幼児を連れ出した直後に殺害し死体を愛玩した話しであるが、泣き喚くと困るので殺害したというものだ。「少女の死体に限りない憧憬があるので・・」といった動機なら多少なりとも私を唸らせたかもしれないが、話しとしてはあまりにもお粗末である。

少女への愛をロリータと呼び習わしているが、このロリータという言葉は米国の作家ナポコフのロリータという作品が大元である。この作品は私も遥か前に読んだことがある(私の蔵書の一冊でもある)が、性的な描写は皆無といってよい内容であった。
ロリータという作品が発表される以前において少女を対象とした愛がなかったわけではない。それが少女愛イコールロリータとして定着したのは、この作品が背徳の書としてセンセーションを巻き起こしたのと大いに関係がある。作品の登場をきっかけとして9歳から14歳ぐらいの妖しく美しい少女を指し示すニンフェットという言葉を生み出し、また少女しか愛せない倒錯心理としてロリータ・コンプレックスという言葉も生んだ。
性的コンプレックス名の命名に作品や作者名が関わる例は珍しくなく、サディズム(マルキ・ド・サド)、マゾヒズム(ザッヘル・ホン・マゾッホ)はあまりにも有名である。ちなみに私の蔵書にはサド及びマゾッホの著作集もある。

どうして男(の全てと言っているわけではない)は少女に特別の関心を持つのか、であるが、澁澤龍彦は以下のような分析をしている。
  現代はいわゆるウーマン・リブの時代であり、女権拡張の時代であり、知性においても体力においても、男の独占権を脅かしかねない積極的な若いお嬢さんが、ぞくぞく世に現れてきているのは事実でもあろう。しかしそれだけに、男たちの反時代的な夢は、純粋客体としての古典的な少女のイメージを懐かしく追い求めるのである。それは男の生理の必然であって、べつだん、その男が封建的な思想の持ち主だからではない。神話の時代から現代にいたるまで、そのような夢は男たちにおいて普遍的であった。
 老ゲーテや老ユゴーの少女嗜好を云々するまでもなく、サチュロスはニムフを好むものと相場が決まっている。シュルレアリストたちの喜ぶファンシム・アンファン(子供としての女)も、ハンス・ベルメールの関節人形も、そのような男たちの夢想の現代における集約的表現と考えて差し支えあるまい。
 小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受け身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。女の側から発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、当節の流行言葉で言うならば、私たちの欲望を白けさせるものでしかないのだ。

 リビドーは本質的に男性のものであり、性欲は男だけの一方通行だと主張したのは、スペインの内分泌学の大家グレゴリオ・マラニョンであるが、そこまで極論しなくても、女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが蒼白く活発に燃え上がるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものにほかなるまい。
 そして、そのような男の性欲の本質的な傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも少女という存在だったのである。なぜかと申せば、前にも述べた通り、少女は一般に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄的な存在をシンポライズしているからだ。

 当然のことながら、そのような完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密に言うならば男の観念の中にしか存在し得ないであろう。そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。要は、その表象された女のイメージと、実在の少女とを、想像力の世界で、どこまで近接させ得るかの問題であろう。
 女が一個のエロティックなオブジェと化するであろうような、生物学的進化の夢想によって、ベルメールが苦心の末に完成した人形も、つまるところ、こうした観念と実在とを一致させるひとつの試みと見なすことができるかもしれない。

 (澁澤龍彦著 人形愛序説ー少女コレクション[P11-12] 第三文明社刊)
つまり少女とは男性にとってエロティックシンボルのひとつであり、少女に特別の感情を抱くのは男性の生理的特質に由来していていることになる。しかも慎みや淑やかさをどこかに置き忘れてきた女性が増えるほど少女に夢を見る男性が増え、また純然たる客体としての女性を求めようと強姦といった性行動も増えることになる。

少女に夢を見るにしても、少女は永遠の命を保つことはできない。と言うか、少女が少女として永遠の若さを保ち続けることは不可能であって、可憐な少女もやがては女として開花し、行く行くは醜く老いて死ぬのが定めである。この無常な時の流れを止めることは神か悪魔の手を借りるしかすべはないが、神も悪魔も現実世界には存在しないゆえに残る手立ては少女を封印することだけである。
封印の方法には凍結・剥製・ガラス詰めなど各種考案されている。考案といっても現実に少女の封印を目的とした計画が推し進められているということではなく、あくまでも話しの上でのことであって、諸君に妖しく美しい少女コレクションの教唆扇動をしているわけでもない。

少女の封印にどんな価値があるのかと思う人もいるだろう。生きていてこそ愛くるしい笑顔に接することができ、また生きていてこそ少女の温かみある肌に触れることができるのだと。
正に、その通りである。しかし少女としての若さを留める方法が見つからなければ、少女はやがて死ぬ。そのため少女の封印は生身の少女の喪失になるけれど、少女が少女であったところの精神的特徴は永遠に保つことができる。女として開花した少女はもはや少女とは言えず、少女の形状をした化け物といくらも変わりないからだ。

とは言え男性は観念的であるがゆえに、必ずしも生身の少女を必要とするわけではない。ファンム・オブジェとしての少女であるならば、更に少女をメタモルフォーゼしてしまう手もあるからだ。例えばハンス・ベルメールのように好みの少女人形を作り上げることである。
それには第一に人形製作の方法が分からなければならないが、How to Make Noah'sでは球体関節人形製作法を写真付きで紹介している。ここで人形製作のイロハを覚えたら、後は自分好みの人形が作れるよう工夫してみれば良いだろう。
しかし工作は昔から苦手だという人もいるだろう。このような人はDoll WARASIで製作依頼をすれば良い。ただしどんな少女人形でも作ってくれるわけではなく、あらかじめ決まった中から選ぶことになっている。少女人形は一体36,000円ということになっているが、高いと思うか安いと思うかはその人次第ということになる。
1999年02月04日