認識と思考(2)

 同じ山でも眺める位置によって見える大きさが異なることは子供にだって理解できることであるが、その者にとって利害が絡んでくると相対的な見方を拒否し絶対性を押し通そうとする特徴もある。しかもこの絶対性の要求を押し通すために先ほどの集団偏重を背景として用い強要しようとする場合も多々見受けられるが、往々にして相対的な指摘に崩れ去るものの頑なに絶対性にしがみつこうとするものである。それはこの者たちにとって絶対性の否定は自己倒壊と等しいと感じてしまうからだ。
 このことは乳離れが出来ない子供が親の元を離れがたいのと似ていて、自己の絶対性を確立するためには他者若しくは多数者という保護者を必要とするという精神性に原因があり、親が離れていってしまおうものなら必死になってしがみつこうとする子供の如く、ひとりだちが出来るほどのものは持ち合わせていないだけに、絶対的妄想を現実のものとするために賛同者を必要とするのである。

 「釈迦に説法」という言葉がある。この言葉の意味は「よく知っている者になお教えること。説く必要のないたとえ」のことだが、謂れとしてはおおよそ以下のような内容だったと思う。

釈迦の評判を聞きつけた**という修行僧が釈迦のもとに赴き、あなたの主張にはこれこれの誤りがある。と得々とまくし立てると終わりまで静かに聴いていた釈迦がおもむろに口を開き、あなたはこれこれの事を見逃しているからそのように思ってしまうのだと答えた。すると**は己の至らなさを悟り、非礼をわびて釈迦の弟子になったという。

 こういった状況は双方の視野、若しくは認識内容に大きな隔たりがあるときに生じるもので、片方の者の視野内を正確に捉えられないのが原因である。つまりそれぞれの人の頭の中には「原因と結果」の関連図が入っているのと等しい状態であるために、他者が表現した内容(結果)を自己の頭の図式にあてはめて原因を割り出そうとする時、他者の視野が自己の視野を上回っている時には原因を正確には捉えきれないということなのだ。
 「自己と他者の視野の大きな隔たり」の身近な例としては男と女との視野若しくは認識の隔たりが上げられるが、心理学者C.C.ユングは「自我と無意識の関係」の中で以下のように述べている。
女性の意識的態度は、一般的に男性のそれに比べて遥かに排他的で個人的である。女性の世界は、父親たちと母親たち、兄弟たちと姉妹たち、夫たちと子供から成っている。残余の世界は似たような家族から成り立っていて、互いに手を振るが、その他の点では主として自分自身にしか興味を持っていない。
男性の世界は、民族であり、「国家」であり、利益コンツェルン等などである。家族はたんに目的のための手段、国家の基盤の一つにしかすぎぬ。その妻は必然的にその女性でなければならぬわけではない(いずれにせよ女性が「私の主人」と言う場合に意味しているのとは違うのである)。普遍的なるものの方が男性にとっては、個人的なるものより切実な問題である。
それゆえに男性の世界は多数の並列的因子から成り立ち、女性の世界は、自分の夫の向こう側では、一種の宇宙的霧に接しつつその果てに到達している。
(自我と無意識の関係 野田倬 訳 人文書院)

 男女の精神的相違を理解できている女は稀である。特に女権拡張論者にいたっては頑なに認めようとはしない。こういった者たちは往々にしてジェンダー(生物学的な性別を示すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別)を持ち出し説明しようとするが、以下のような事柄について答えることが出来ない。

難民キャンプで元気なのは女と子供だけである。男は普遍的な事柄を重視するので先行きが不透明になると意気消沈するが、女子供は個人的事柄を重視するので援助物資が届いてさえいれば特に悩まない。同様にして今の日本のように経済見通しが暗い状況では男より女の方が比較的元気なのである。

自然界は弱肉強食であるが、人間には鋭い牙も硬い甲羅も鋭敏な嗅覚もない。しかし人間は比類なき頭脳によって他の動物たちを圧倒し人間社会を形作ってきた。また世界を歴史的に眺めても男性優先の国しか存在してないのは男女の精神性に違いがあったからで、女性優先の国家(若しくは女性のみの国家)は伝説上のアマゾネスしかない。もし男女の精神的能力に開きがなければ半々がそれに近い数になったことであろう。一応断っておくが女系社会・男系社会の話ではない。

 女と男ばかりか男同士の間でも能力の格段の開きが生じる場合がある。それはどちらがより普遍性を重視するかで決まり、全体主義的気質が色濃い人ほど既存社会若しくは集団を絶対視するので時空間も含めた広範囲な捉え方が出来にくくなってしまうからだ。
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ここまで。他と区別できるよう枠色を替えてあります。
2004年12月12日