認識と思考(1)

 ある欧米人は日本人を「13歳並の子供と等しい」と評したが、これは彼らの精神を基準にするならば日本人の精神性はその程度であることになるが、この言葉にうなずける日本人は先ほどのカルトの件と同様に数少ないのではないかと思う。この欧米人が日本人の何を見てそのように感じたにしろ、一般的日本人の認識と思考のレベルが低いことは度々実感してきたし、鎖国状態ではないにも関わらず欧米人との精神性の違いに気が付いてない人が多いのには些か驚きであった。

 しかし日本人一般が全体主義的気質を備えている点からすれば無理ないことで、自分で考えたことが他者若しくは多数者の結論と異にすれば途端に自信をなくし意見を引っ込めてしまったり、権威ある者の言葉には逆らえないといった気持ちの積み重ねによって思考の機会を作り出せなければ、認識も単純性に留まってしまうものだからだ。
 しかも従来型社会で互いに意見をやり取り機会は精々雑談が関の山で意見を戦わせる風土も習慣もなく、限られた人だけが限られた場で申し訳程度の意見交換行う程度であり、「人と争うのは良くない」といった風潮が幅を利かせて論争という段階まで進展せずに終わる有様である。

 今からおおよそ20年前にネット時代の幕が上がった。いわゆるパソコン通信であるが、同じ趣味を持つ人たちの情報交換の場が討論の場としても利用されるのにさほどの時間は必要でなかった。しかし当時パソコンはまだまだ一般的ではなくネットに参加してくる人は更に限られた人だけであったものの、対等でフリーな雰囲気がもてはやされ、本名でなくハンドルを用いてのやり取りであったことも幸いし討論が白熱することも珍しくはなかった。
 「議論とは自分の考えを相手に押し付ける方法である」と言った人がいるけれど、相手の主張を打ち崩し自己の主張の優秀性を証明することを討論の目的とする人が現れてくるほどに討論におけるテクニックと思考の程度が高まりを見せるのは必然であり、戦争によって兵器と作戦が高度化するのに通じるものがある。そして従来の方式とは異なった原理に基づく兵器が開発されるように、討論においては相手を把握し効果的に叩きのめすための方法として全体主義的な視点に捉われない自由な視点からの思考が模索され、その結果、全体主義的な縛りを解き放てない人とでは思考面において格段の差が生じることとなった。

 全体主義的気質が強く出ている人の特長のひとつに多数者を背景にするがごときの物言いがある。物理的な条件が等しければ小より多の方が優勢だけど、「うちは1000人を集めたのでこれこれの発明ができた」「うちは1万人集めたのでこれこれの発見が出来た」といった物言いはされない。発明や発見は個人の才能に起因するものなので当然だけど、均一化を望む気持ちが強ければ「人の精神に基本的な違いはないはずだ」と思いたがるものである。
 多数者を背景にしようという意味ではやたら常識を持ち出そうとするのも特徴のひとつだが、常識とは「普通、一般人が持ち、また、持っているべき標準知力。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む」に過ぎず、真実かどうかということとは関係ない。従って幽霊の存在を信じている人たちならではの常識があるかと思えば宇宙人の存在を信じている人ならではの常識があるというように、「特定集団における一般的な共通認識はかくあるべきだろう」という程度に留まるので、一見すれば特定集団に属しているように見えても実際にはそうでない人や集団より個人を重んじる人に対しては意味は失う。しかし集団偏重の意識が強い人は常識を権威の一つして捉えてしまうので、常識を持ち出せば相手を圧倒できると思ってしまうのである。
2004年12月12日