全体主義的気質(2)

 これらの例は日本人一般が全体主義的気質を備えているために『既成集団若しくは既成社会に背いてしまうことを恐れる』ためで、例え宗教といえども「既成集団もしくは既成社会の習慣や慣行とは馴染まないと感じるもの」については異質性を強く感じ、既成集団もしくは既成社会との両立は出来ないと思ってしまうのである。しかし異質性を感じてはいても集団の総体的意思が変革や解体を受け入れる気でいる時には総体的意思に逆らってまで行動しようとはしない。だからこそ大東亜戦争敗戦直後の組織的武力抵抗活動計画は雲散したのである。
 それに反し総体的意思が迎合に反対していると思えば敵意を露にするばかりか潰してしまおうともするのである。既成のキリスト教団体が日本人一般に迎合されるよう布教の根幹を見直したのに反し、オウム教を初め一部の新興宗教は信仰集団と世間との接触を極度に減じたために世間から疎まれるだけでなく敵視もされた。そしてその挙句被害者団体なるものが作られて「親を返せ・子供を返せ・妻を返せ」の騒動が発生したわけで、無宗教でありながら神社仏閣に詣でるのを意に介さない者たちならではの宗教観をまざまざと見せつけた。

 オウム教事件の最中、ある外国人記者が「日本人は元々がカルトだから・・」と発言したのをテレビで見たが、「なるほど、そういう見方もあるかな」と思った。同じテレビに出ていた日本人キャスターは外国人記者の発言を聞いて「え?そんなことはないでしょう」なんて食ってかかっていたが、己のことすら分かってないのには哀れであった。
 カルトとは「なんらかの体系化された礼拝儀式,転じてある特定の人物や事物への礼賛,熱狂的な崇拝,さらにそういう熱狂者の集団,あるいは邪教的な宗教団体を意味する語。普遍的に見られる宗教現象」であるが、日本人一般の全体主義的気質による社会現象を説明する上ではカルトという呼び名の方が相応しいかもしれない。戦後になって天皇の権威に陰りが出てきてはいるものの、それ以外の「事物への礼賛や熱狂的な崇拝」までもがなくなってしまっているわけではないからだ。しかも個人の自由意志の結果としてでなく、明示的暗黙的を問わず集団としての圧力が伴った「事物への礼賛や崇拝」が求められる機会は日本人社会のいたるところにある。
 帝国憲法第三条には「天皇は神聖にして侵すべからす」と定めてあるが、これを「組織は神聖にして侵すべからす」と置き換えた如くの状態が往々にして見られるし、帝国憲法における「天皇と臣民」の関係までもが「組織と構成員」に適用してるかのような状態も少なくない。もっとも昨今では世の中が人権といったことなどで煩くなってきているので形の上では違いがあるものの、「専制的に振舞っても下から(他から)文句は来ないだろう」といった気持ちの表れまでもがなくなってしまっているわけではない。

 このような日本人一般の全体主義的気質も過去において是正の機会はあった。それは日本が大東亜戦争に敗戦してGHQの管理下に置かれた時代のことである。しかしGHQは日本の民主化を意図してはいたが日本人に徹頭徹尾民主主義を植えつけようという気まではなく、更には朝鮮戦争の勃発によって民主化政策が頓挫してしまった。またその一方で戦後政策を担う人たちが天皇制存続を重視していたこともあって、個人を基調にし尊厳を重視した教育方針に改める気はなく全体主義的気質が温存されてしまった。
 その結果GHQの置き土産である憲法の精神と日本人一般との意識とは乖離し、形の上では欧米に引けを取らない文化的な生活を営んでいようとも、精神面では依然として未発達な状態に留まっている。
2004年12月12日