全体主義的気質(1)

これより示す文は某氏に宛てた書簡の一部です。某氏とは誰か判明する箇所はないし、力作をただ眠らせておくのも惜しいので謹んで提示します。(^_^)
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 全体主義とは「個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張によって諸集団を全体のもとに一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想および体制」のことであるが、日本人一般にはこのような特徴が多かれ少なかれ散見できるものである。とは言え、日本人一般が全体主義思想に染まっていると言っているわけではない。たまたまにしろ全体主義に似た気質が備わってしまってるということなのだ。
 つまり日本社会で生まれ育った人は否応なく集団偏重の洗礼を受けてしまうということで、身に付いた集団偏重は思考・認識・行動に影響を与えることは勿論、アイデンティティーと密接に関わりを持つ。この気質の大きな特徴は集団偏重と均一化の二点であって、外見的には集団もしくは複数の人の評価を殊更重視したり他の人と歩調を合わせようとする行為として表れる。また常に集団の中に位置していたいという半ば無意識的な思いによって「普通に」「標準で」を乱発するし、他者に対しての要求時に「人(他者)は」「多くの人は」「常識では」といった集団を背景にするが如くの物言いもよく見られる。更に均一化を望む気持ちが高じると共産主義的な平等意識が表れるが、かといって思想的な背景があるわけではない。他者と横並びできないと不安を感じるからである。
 それとは別に日本人ならではの特徴については日本社会論などにおいて色々な呼び名与えられ(例えば「タテ社会」「ムラ社会」「タテマエ[理念]とホンネ [慣行]」)説明されてきてはいるものの、その殆どは社会構造に焦点を当てたものばかりである。従って日本人の精神面に焦点を定めれば全体主義的気質という呼び方が相応しいのではないかと思う。

 日本人ならではの精神性は折りあるごとに欧米人に知られてきた。例えば日本が大東亜戦争に敗戦した後に進駐軍として上陸してきた米軍は通信網の確保を最優先課題とし整備に努めたものの、組織だった武力抵抗どころかそれらしき状態も発生せず拍子抜けに終わったことが当時の記録で紹介されている。
 もっとも上陸してくる米軍に一泡を吹かせてやろうとか、山に立て篭もって徹底抗戦を行おうとの動きはあった。しかし「天皇に迷惑がかかるから」といった説得を受け入れて山を下りたり、飛行機のエンジンを取り外してしまうといった余計なことをしてしまう者がいたので、結局のところ組織だった武力抵抗は少なくとも国内においては発生しなかったのである。

 同様な例は他にもある。キリスト教は世界のいづれの地域においても同じ方針で布教に望むことにしているけれど、インドと日本においてのみ特例を設けている。それはインドでは人々がヒンズー教と堅く結びついているために「ヒンズー教徒でありながらキリスト教徒でもある」ことを容認しているし、日本においては「キリスト教徒が他の宗教(主に仏教)儀式に参列する」ことを容認している。
 もっとも日本においても当初は他の宗教儀式に参加することは堅く禁じていた。しかし一旦キリスト教徒になった人が近親者・友人・その他の集団的圧力に負けてキリスト教を辞めてしまう事態を懸念し、キリスト教が日本においてそれなりの地位を確保するために「宗教儀式に参加するのでないのなら」という分かったような分からないような理由をこじつけて法事に参列するのを容認する方針に転換したのであって、カソリック・プロテスタントともに同じ方針で臨んでいる。
2004年12月12日