差別語とは禁句又は禁忌語の置き換えなり

以下の文面は某掲示板で発言したものとほぼ同じです。
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差別語との呼称を誰が最初に用いたにしろ、ネガティブさを彷彿させる使い方が一般的にまかり通っていることは当然承知しています。しかし差別との語そのものは必ずしもネガティブさを彷彿させるとは限らず、「商品の差別化」といった使い方は問題にもされてはいません。
そのため差別は「正当な差別」と「不当な差別」に分かれ、また差別語も言語的には「正当な差別語」と「不当な差別語」とに分けて使用すべきです。ところが「不当」「正当」との語が「差別語」との語の前に付加されて使用されることはまずありません。それは差別との語までもネガティブに捉えてしまっているためでしょう。

何かについての見解を表明する時に必ずしも仔細に語られるわけではありません。論理を示さず結論だけを示す場合もあるわけで、この場合何かについての前提が相手とも一致してる時にはそのまま俎上に載せることが出来ます。
しかし前提が異なっていれば俎上に載せるのは無意味であり、相手との間で前提を調整しなければなりません。そのため前提が結果となるそれ以前の事柄にまで遡り討議によっての煮詰めに移行することになります。そしてこの煮詰め作業によっても双方の見解が一致しなければ更に遡ることになりますが、差別語と区別語云々はひとつの前提の煮詰め作業に相当します。

ところがこのような次々に遡っての煮詰めを誰もが行えるわけなく、また遡っての煮詰めを好まない人もいます。付和雷同の人は他者の見解の上に自己の見解を構築しているだけなので、遡れば遡るほど行き詰まってしまうためです。また本心は別のところにある人は、遡りは本心の暴露と等しくなるので煮詰めを避けようとします。
hachi氏の場合には煮詰め作業において自己矛盾を発生させ、その結果hachi氏の主張は潰れ逃げて行ってしまいました。それはhachi氏の場合には論理の整合を保ったまま階層的に積み重た結果の主張ではなく、言うなれば願望という名の接着剤でかろうじて繋ぎ止めていた主張であったためです。
,さて、区別語としての例に用いた「高い・低い」の品詞は形容詞で、「支那人・米国人」は名詞です。形容詞は「事物の性質・状態を、事物の持続的・静態的な属性に着目して表す語」であり、名詞は「事物の名を表す語」です。そのため形容詞は「差による区分け語(差別語)」にそのまま置きかえることは出来ますが、名詞は等価ではない複数の名詞が暗黙的にしろ認識できた場合のみ「差による区分け語(差別語)」に置き換えできることがあなたとの間で了承できました。
ところがもう一方で差別語と呼称される「単独の名詞」があります。この名詞は今述べた差別語の論理では説明できません。つまり言語的な「差による区分け語(差別語)」に相当しないにも関わらず差別語として命名されているためです。

じゃ、この「差別語とは何か?」ということになります。名詞は本来「事物の名を表す語」ですが、それぞれの言葉は各自の中で独立して記憶されているとは限らず、大抵何らかの事柄と関連付けされて記憶されています。
しかし関連付けされた事柄は万人ともに同一ではないので、特定の言葉を聞いたときに彷彿する事柄は人によって異なってきます。そのためある言葉が特定の人や人達にとっては不快な事柄を想起する場合も出てくるわけですが、「何らかの意図の元」に使用を避けようとする言葉への命名が差別語であったと捉えてまず間違いはないでしょう。
,ところがこのような性質を背負わせる言葉に差別語と命名しなくても、既に「禁句」との言葉が存在しています。禁句とは「他人の感情をそこねるので使うのを避けるべき語句」であり、禁句と称する方法もあったでしょう。
また社会的な禁句としての性質をもたせるならタブー語との呼称も使えますし、いっそのこと禁忌語としてしまう方法もあります。禁忌とは「日時・方位・行為・言葉などについて、さわりあるもの、忌むべきものとして禁ずること。また、そのもの」であるので、言語的には禁句か禁忌語が相応しいと言えるでしょう。
1999年10月23日