差別語と区別語

「差別語」と呼んでいる言葉は本来ならば「区別語」と言うべきであり、区別語は脈絡によっては「差別的・侮蔑的」に使うことが出来ます。また区別語が特定の人の心の中にある「劣等感」を呼び起こすキーワードとして働くときには「差別的・侮蔑的」として受け取ってしまうという、「区別語ならではの宿命」と呼ぶべき性質を持っています。

区別語は通常他の言葉と組み合わせて使います。例えば「高い・山」「小さい・山」「近い・山」「遠い・山」といったようにです。しかし必ずしも「高い・山」と「小さい・山」というように複数の事柄を併記するとは限りません。一方の事柄を暗黙的とし「高い・山」としてしか現さない時もあります。
区別語には本来は区別語でない言葉も含められます。例えば「林檎」「梨」「葡萄」のようなモノの名称を表す言葉です。そのためこのモノの名称を用いる区別語は「広義の区別語」として分類することもできます。

会話或いは文章でどの程度の頻度で区別語が使われているのかをデータ―として抽出したことがないので全く分かりませんが、もし区別語を全く使わないのであれば言語は言語としての機能を失ってしまうのではないかと思います。
例えば下の
>自分の狭い世界から抜け出せない「弱い人間」を許すことができ、
>新しい未来(世界)を切り開いて行く決心をした明日を信じて!さ
>んはやっぱり「強い人間」です!。
文面には区別語が幾つか含まれていますが、広義の区別語も全て使わないのであれば、
2.>のから「」をことが、
2.>()ををを!さ
2.>んは「」です!。
といったものぐらいしか残らないでしょう。これでは言語としての機能を果たしません。
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言語は文化の鏡であり、文化によって使われる言葉に相違があります。同じ事柄を別名称で現す時もあれば、新しい文化が勃興或いは流入すれば新しい言葉が使われるようになりますし、特定の文化が消滅すればその文化に関わりある言葉が次第に使われなくなってきます。
しかし日常的には使われなくなっても何らかの形で残される(或いは残る)言葉もあり、文化の変遷や歴史を辿る上での重要な資料となっています。そのため日本語も日本文化の継承及び発展という観点において後世にも正確に伝えて行くべきなのであって、全ては現世代の人々に託されていると言っても過言ではありません。

昨今の顕著な差別語廃止云々は日本文化の消滅を意図するも同然であって、日本人がいかに自国の文化を軽視しているかの見本でしかありません。古くは明治維新後西洋文明が大量流入してきた時に、それまでの日本文化が軽視され多くの文化的遺産を外国人に二束三文で売り渡すという事態がありました。
また敗戦後においても同様な傾向が見られ、後になって外国人の評価に驚き慌てても一旦散在してしまった文化遺産を再び手にするのは困難であり後の祭でしかありません。
日本の状況に反して西欧では、少し前どころか中性の町並みなどが今なお現存しているように文化的遺産の継承と維持に並々ならぬ努力を傾けています。

こういった日本人の馬鹿さ加減は視野の狭さに原因があって、目先の出来事に囚われ物事を長期的視野で捉えられる人が比較的少ないためです。日本人の視野が西欧人に比較し極端に狭いのは思考の訓練を疎かにしきた付けであって、自分で考え判断し結論を得るよりは他者の考えや判断を重視してきたためです。
しかも日本人大半の思考は非論理的であって物事の整合性を度外視し、好き・嫌い、都合良い・都合悪いを優先させている傾向が多々あるために、当然ながら多くの矛盾点を孕む始末です。それでいて巧く行くはずだと軽々しく思い込んでしまうという救いのない状態の悪循環に陥っているのです。

たがために差別語なる言葉の廃止云々の声を上げている人は自らの馬鹿さ加減を高らかに吹聴しているのと同意義であるにも関わらず、気高いことを行っていると思いこんでるに至っては「馬鹿に付ける薬はない」との言葉が当てはまってしまいます。
1999年10月01日