インターネット : あほ実情記録 1

インターネットとあほ
 パソコン通信で論争を主にしていた人は、インターネットのあらゆる場所であほが群れているのに一度は驚いたことがあるはずだ。この原因はインターネットならではの特性に由来しているのだが、その前にパソコン通信での論争経過に付いて簡単に触れてみる。

 論争はパソコン通信の揺籃期より行われてきているが、当初は個々の能力にはそれほど差はなかった。しかし論争が度重なるに従って個々の優劣が顕著さを増し、また論争レベルも次第に高度化するようになった。
 パソコン通信への参加人数は当初徐々に増加した関係もあって、後から入ってきた人は論争の先駆者が開発発見した思考方法や論争テクニックを身に付ける機会に浴した。一方あほでありながらあほと気付いていなかった人たちはパソコン通信に参加したことによって、己があほの部類に属していたことを嫌でも自覚できる機会に恵まれ、また論客の教導によって多少なりともあほを改善することができた。
 しかしパソコン通信が一般化するに連れあほが大量に入り込んでくると教導の手が足らなくなり、あほはあほだけのグループを(結果的に)形成するようになった。しかしそれでも論争を主とする人たちが少なからずいたために、あほは己があほであることを自覚できる機会だけは残されていた。

 インターネットでも論争は行われてきた。しかしインターネットはパソコン通信と比較にならない広大な空間を有するとともにあらゆる目的の人が参加しているので、論争を主にする人たちがいてもパソコン通信のような高度な論争集団へと発展する余地が殆ど無い。
 仮に高度な論争集団が存在していても次から次へと雲霞のようにインターネットに参入して来るあほが高度な論争集団に巡り合う可能性は少なく、あほがあほとして自覚できる機会は希にしか訪れないといった状態にならざるをえない。
 そのためあほの部類に入る人たちの中であほを自覚できている人の数は極めて少なく、殆どのあほはインターネット内をあほを丸出しにし大手を振って闊歩しているのである。

あほの特色
 一口にあほといっても色々な形態があるが、読み書きがまともにできないあほには目を覆いたくなる。ネットでの会話には文字を用いるので読解力と表現力が付きものだが、話し言葉で書いていても文章ならではの特性を理解していないと読解力と表現力が極端に劣ってしまう。
 通常行っている会話は次々に流れ去っていくので、相手の主張はニュアンスより単語レベルの方が記憶に残りやすい。片や文章ではニュアンスが重要な要素のひとつなのだが、文章に慣れ親しんでいない人ほどニュアンスを軽視しがちになる。そのため普段から文章に慣れ親しんでない人ほどネットでの会話において単語に反応する傾向が強まり、ニュアンスを含めた解釈ができにくくなっている。
 また言葉を覚えていく過程において辞書から遠ざかっている人ほど用語に独自の意味付けをしている場合があり、相手の文を読む時や意思を表現する場合に悪影響として表れることになる。

 次に紹介するあほは思考と認識に特有な傾向を備えている。この傾向は個と集団の結びつきに関わっていて、言うなら個としての自立に至ってない子供ならではの特色と言えるものである。しかもこの傾向は肉体的や社会的に大人になっている人でも尾を引いていて、日本社会の構造上本人があほだと気付いていない場合が非常に多い。
 このあほのタイプは幾つかに分けることができるが、実際のあほが必ずしも明確に分かれているわけではない。程度の差はあれ混合した形で見出せるためだ。

 その第一は「集団を背景にした(或いは背景にするが如くの)主張」を特徴とする。この種のあほは自分の意見に自信が無いために、個としての主張ではなく集団の意思を反映しているように振る舞うことによって、個としての主張に重みを持たせようと意図する。主張に「人も」「誰も」「常識では」「良識では」といった言葉を含ませるばあいが多々あるので容易に判別できる。またこの種のあほは集団からの疎外を恐れている傾向が往々にして見られ、集団としての価値観や意思と自身が一致していたいといった半ば無意識的な気持ちを垣間見ることができる。
 つまりこのあほは(肉体的には大人であっても)精神的に自立できていない子供ならではの発想によく似ていて、相手を威嚇し牽制するための手だてに集団を背景(相手より優位な立場にいると示す目論見)にしようとするのである。

 第二にの特徴は「自分を中心とした認識」である。つまり「自分はこうだから他者も同様のはずだ」と思い込んでいるために、他者の主張を理解する過程で自分にあてはめて判断してしまうのである。しかもこのあてはめが意識的ならまだしも、半ば無意識的にあてはめてしまっている時には「自身の内部的影響に気付いていない」ことになる。
 この「自分はこうだから他者も同様のはずだ」と思い込んでしまっているのは、第一として取り上げた中での「集団からの疎外の恐れ」への逆の面の場合もあるが、大抵は世間知らずの子供と同様に自分と他者を区別できないための所産である。
 これら第一と第二の要件を満たしているあほは程度の差はあれ特に珍しいわけではない。それは「戦後教育の欠陥」で少し触れている状況に大多数の日本人が置かれているためと、外国人や外国の状況に接しても未熟な思考が災いして日本社会が一風変わっていることに気付く人は少ないためだ。

 その他あほには「利口を装う馬鹿」などもいるが、これらのあほに付いては特に説明しない。
1998年05月17日
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