鳩山邦夫は「殺人鬼」の方が相応しい

「死に神」とは『人を死に誘う神』であり、「殺人鬼」とは『平気で人を殺す残忍な人間を鬼にたとえていう語』である(大辞林)。

死に神は西洋では鎌を持った姿で描かれることが多いゆえに、朝日新聞では「命を刈り取る」ことから准えたものと思われるが、鳩山邦夫による13件もの殺人指令は、3人殺せば死刑判決が確実の状況に照らし合わせても「殺人鬼」の資格十分である。
オウム教麻原の打ちたてた殺人数26人には及ばないものの、「殺人鬼」鳩山邦夫は野放し状態なので更に記録を伸ばし、麻原の記録を遅かれ早かれ超えることであろう。その時には単なる「殺人鬼」ではなく「歴代随一の殺人鬼」の称号が相応しかろう。

鳩山邦夫の殺人指令を当然のこととして受け止めている人が多いように見受けられるが、死刑廃止は世界的な潮流である。日本が世界的な潮流に背を向けてまで頑なに死刑を存続させるのは、日本の法制度そのものが封建的な基盤の上になりたっているからだ。
「罪を憎んで人を憎まず(犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない)」という言葉があるが、日本においては「人を憎む」ことを未だに行っている。何か事件が生じると被疑者の反省有無が取り沙汰され、反省有無によって量刑までもが異なってしまうのは、犯した罪より人を憎んでしまっているからだ。

つまりは「権力に歯向かう者は厳罰に処する」というのが日本の法体制の根幹にあるということなのだ。そして権力に歯向かう者への見せしめの頂点に死刑を据えているために、世界的な潮流に背を向けてでも頑なに死刑存続にしがみつくのである。

「死刑は殺人の防止に繋がらない」ことはデーターとして示されているし、「犯罪被害者の感情云々」は取ってつけた理由に過ぎない。死刑を存続させる真の理由は先ほど述べたとおりであり、殺される死刑囚にも当然ながら家族や親族が存在することが全く考慮されてない。

犯罪被害者は常に被害者ではなく、死刑の実行を望んだ時点で「殺人の加害者に転化」することを見落としている人が少なくない。つまりは権力のどちら側に位置しているかによって評価が異なるだけで、どんな理由があろうと殺人の片棒を担ごうとしてる点では同じなのだ。
このことは犯罪被害者と称される人々および一般の人々は自覚すべきであり、鳩山邦夫は「殺人鬼」に他ならないと認識すべきなのである。
2008年07月14日